(顔が、すーすーするな)
彼は目を閉じたまま、明澄な音を拾っていた。イー、イ゛ーと鳴くのは山羊。クルル、クアァと鳴くのは鶏。遠くに、家畜がいる。
臭いから知れるものも多い。強く鼻を付くのは薬草の、舌を刺激する苦み。香木を焚いた残り香も、妖しげな甘さを孕んで漂っている。それらに紛れて、ぬめりのある不味さが纏わり付いていた。彼は顔をしかめ、うっすらと光を受け入れた。
薄暗い光も、眠りに身を落としていた彼には眩しかった。開けきらない目で、そろそろと辺りを窺う。
始めに彼の眼に映ったのは、鳳を象った文様だった。鮮やかな臙脂色の毛織物で、色取り取りに壁や天井を覆っている。老緑の彗星蘭、灰青の飛雲、砂色の麦束…… 巡って右に視線を傾け、ある一点に留まる。白茶と琥珀の、風を留めることを表す幾何学模様が戸を飾っていた。
(ここは、ルシヤの館だろうな)
彼は情けない表情を浮かべる。ふうっと息を吐くと、顔を一切動かさずに真上を見つめた。家畜と、たまに届く人の声を、聞き取りもせず聞いていた。
彼が一刻ほど身じろぎもせずにいると、その耳に足音が滑りこんできた。風模様の戸が、ガタガタと音を立てて開く。
「目が覚めたようだな」
低く張りのある女の声だった。彼は、素顔を晒された呪術師は微かに頷いた。
「わたくしめの術具は、何処へ御遣りになりましたか」
ろくな挨拶もせず、呪術師は入ってきた女に聞いた。いや、娘と呼ぶ方が適当だろう。頭巾を未婚の、頭上で結ぶ形で被り、細い指で薄い籠を支えている。
不躾な質問に娘が眉をひそめて、一時。戸が閉まる音が長く静かに響いた後、淡々とした答えが呪術師に返される。
「血みどろの服はもう焼いた。それ以外は、足元に置いてある」
「では、それらを枕元に置いては下さいませんか。気がかりで仕方がないのです」
さすがに今度は、娘も歩みを止めて呪術師を見た。家畜の鳴き声が響く他は、部屋は全くの静寂で満たされる。呪術師は、口を横一文に結んだ。娘も、長く編んだ濃紺の髪すら一切動かさず、じっと視線を留める。先に無音を壊したのは、天に顔を向ける呪術師だった。
「ただの術具ではないのです。呪が暴走することもございます」
ようやく、娘も瞬きした。
「まずは名を聞こう」
「カチェ。旅の呪術師です」
呪術師は顔を右に向けざま、顔をしかめた。娘はつかつかと四歩進むと、籠を床に下ろす。そして呪術師の足元へ姿を消し、ぬっと左に現れた。手には黒ずんだ布と、鈍く光る装飾具を一纏めに抱えて。
呪術師の要求を叶えた娘は、次に、彼に掛けられた毛布を剥いだ。赤黒い傷当てだらけの躯が、ひんやり肌寒い空気に晒される。
顔を無にして、呪術師は目を閉じた。衣擦れの音と、薬草のツンとした香りで部屋が満たされる。娘が遠慮なく布を当て替えている間も、薬を傷に擦り込んでいる間も、呪術師の表情に変化はなかった。
やがて手当も済み、娘は呪術師に毛布を掛けて立ち上がった。去り際、籠を持って四歩離れたところで呪術師を振り返る。
「あしはこの地、ルシヤを治める者。ケニ・ジャ・イグ。傷が癒えるまで、この館で緩りとされるがよい」
言い終えて娘、女領主は、風模様の戸の向こうへ去った。